「本当の俺は、アギトでも『津上翔一』でもないと思うんだ。」
津上翔一として彼女の前に存在し、アギトとして戦ってきた青年はそう言った。
「だから俺、沢木哲也に戻るよ。」
「翔一君?」
そう呼びかける少女に、少し困ったような笑みを浮かべる。
「もう行かないと…」
他に行くところがあるというのだろうか?
そう思ったが、彼女は彼の行き先を聞けなかった。
そうして青年は彼女の前から姿を消した。
『津上翔一』がいなくなってから3ヶ月。
桜も散り、新年度を迎えて世間も新しい生活に馴染み始めた頃。
美杉家の家庭菜園には菜園の手入れをしている少女の姿があった。
今年は他に何を作ろうかなあ
なんて思いながら、てきぱき夏野菜の種を蒔く様子はすっかり板についている。
「真魚」
そんな彼女に声をかけたのは美杉家の当主。
「美味しいケーキの店をうちの女子学生に聞いたんだが…今度買ってきてくれないかな?」
「私が?」なんでという言葉は呑みこんだ。
「女性に人気らしいんだ。ちょっと行きにくくてな。」
「…そんなに気になるの?しょうがないなあ。」
そうして、叔父に聞いた洋菓子店を探してきてみると、なるほど、店の中は若い女性客で込み合っているようである。
確かに叔父さん1人じゃ来づらいかも…
そう思いながら軽く中をのぞきこむ少女。
「トマトのタルトにホウレンソウのケーキ…?」
どうやらそれがここの店の人気らしい。
「なんか翔一君みたい…」
そう考えて、まさか、と思いいたる。
まさか、そんな…
店に入ると、ちょうどできたてのお菓子をパティシエが持ってきたところだった。
彼女のよく知っている。
それでいてまったく知らない青年がそこにいた。
戸惑う彼女に声をかける。
「お客さんは初めてですよね?」
くったくのない、人好きのする笑顔を向けられて。
だから、彼女もほほ笑みかえした。
「ええ。はじめまして。」
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